魂はどこに・・
ちょっと歩いた場所にコンビニがあります。
東に1店舗、同じくらいの距離を西に行っても1店舗。
以前は目の前にコンビニがあったので便利だったんです。
でも、つぶれてしまったので少し歩いていかないとならなくなりました。
運動不足なのでちょうどいいんですけどねw
なんとなく今日の気分は西のコンビニでした。
店内を見て回り気になるものを手にとってレジへ。
ふと、店員さんから声をかけられました。
「前にあちらのコンビニにいらしてましたよね〜」と。
店員さんを見ると、目の前にあったコンビニでよく顔を合わせていた方でした☆
いやぁ♪びっくり。
どうしちゃったのかなーと思っていたのと、覚えていてくれたのと、
まさかここで働いていたなんて〜♪とw
しかし、思いました。
私はつくづく人の顔を見ていないなーと。
レジだろうが何だろうが、人の目を見てコミュニケーションをとることをクセづけたいなーと思いました。
私は人との関わりがあっさりしすぎていると自分でもよくわかっています。
そこをもう少しなんとかするのがこれからの課題の一つです。
小さな目標を立てながら、実践で変わっていこうと思います★
では、本日の記事です。
魂はどこ?
野菜はカテゴリーです。
人参も野菜、ピーマンも野菜、玉葱も野菜。
ほかにもたくさんあります。
心も同じようにカテゴリーです。
見ること、暑がること、悲しむこと、考えること、寝ること、髪が伸びること、
など、これらのはたらきをまとめて心といいます。
心はどれ?魂はどこ?というのは、野菜はどれ?野菜はどこ?と”野菜”というもの自体を探しているのと同じことになります。
実体があるわけではなく、カテゴリーなのです。
魂といわれているものは、自分という感覚です。
その感覚を”私”と言っています。
自分で判断し、反応して行動する、生き延びようとするそのはたらきが心です。
対象を認識するはたらき・知る機能=心
人間は知ったことを妄想によって自分の中で延々と思考を回転させてしまいます。
人それぞれ受け取り方が違うのは、妄想なんですねw
身体があって、心があって、反応があるからには、そこにいろいろなエネルギーがあるわけです。
それらの集まりの中心に魂があるようなそんな錯覚なのかもしれないなーと思ったりしました。
見えない、匂いもない、音もない、触ることもできない、味もない
そういうようなものは概念でしかありません。
ただ、生きていくには概念があって、区別があるのが便利です。
その区別が当たり前になって実体があるかのような錯覚を起こすのかもしれません。
事実があって反応がある。
やっぱり、生まれてくる感情というものは不思議です。
感情によっていろいろなコミュニケーション関係が生まれます。
感情があるからこそ、人は生きて子孫を残していけるのだと思います。
心に関して深く探っていけばキリが無さそうですが、毎日がより良い日になるよう
実践できそうなものを見つけていければ嬉しいですね♪
【参考図書】ブッダの実践心理学 第2巻 心の分析 / アルボムッレ・スマナサーラ